ひとがひとの幸福を壊す恐ろしさ〜『キャバレー』
2004年10月14日 その他舞台関係行ってきました。
えーと、先週あたり・・・・かな?
遠い昔ライザ・ミネリの仰天の美しさに幼い私もメロメロだったという例のアレです。
なんていうか、なんていうか・・・・ほんっとに”痛い”話だったと思いました。
ビデオで観た時は”早く記者に乗るって言えYO!”と、サリーの動向にもっぱら躍起になっていた記憶があるのですが、今回はなんというのか、こう、私はキャバレー見にきたんだよ、ね・・・・?という感じでした。
劇中にこれほど、その場で席を立ってトイレに駆け込みたくなるほど(・・・・)(何故トイレと思ったのか・・・)激痛の走った公演はいまだかつてありません。
それほど痛かった。
戦争に絡めて・・・・というか、あの退廃的な雰囲気と戦争の陰鬱な感じが絶妙に交じり合って、(グローブ座のあの微妙に狭い感じもあるのでしょうが)、息苦しい気持ちにさせます。
疑似体験というにはおこごましいけれど、それほどまでにひとの恐ろしさを肌で感じた公演でもありました。
ゆりちゃん(星奈優里ちゃん)がコメントで「ひとの恐ろしさを感じていただければ・・・・」みたいなことを書いていたのを終演後に読みましたが、一幕最後がほんとにそんな感じで、純粋に何かを信じているひとの突き進んでいる姿の恐ろしさというのでしょうか。
ただひたむきに進んでいくっていうのは、高潔だったり真摯だったりみえるんだけど、このキャバレーは、ひたむきだからこその高潔さが確かにあるんですよね。
だからこそゾッとしたというのか・・・・瞬間的に手を引いてしまいそうな、顔を強張らせてしまうようなものがありました。
すごくリアルだった。
だからとても空恐ろしい気持ちになったんだと思います。
それと、やっぱり聴覚的に飛び込んでくる日本語だったのがおおいにあると思いました。
やっぱり英語とかで聞いている限りでは、恐ろしいと思うんだけどどこか現実感に欠けるんですよね、少なくとも私には。
「殺せ!」と言われるのと「KILL!」というのではやはり耳に飛び込んでくる絶対的な恐怖感は比べ物にならない。
普段自分が使っている言葉、要するに、”もしかしたら同じ言葉を聞くかも知れない恐ろしさ”というような、デジャ・ヴュを感じさせるんだなあと。
翻訳ものの価値はここに集約されていると思います。
本場は本場で確かにマジで感動します。
ウエストサイドもシカゴもこのキャバレーもそうだった。
でも身近に感じるのでは遙かに翻訳ものが一歩先に出るのです。
あの、字幕を見ている瞬間に、私たちは一度現実に立ち返ります。そこで「ああ、これはお芝居だ」と少し安心してしまう。
でも翻訳されていたならば耳に入るのは日本語で、字幕で目を逸らすことも出来ないから見つめていることしか出来ず、引き込まれれば引き込まれるほど眩暈のしそうな恐ろしい現実感にゾッと背筋を凍らせるしかない。そういう感じがします。
逃げようのない恐ろしさ、迫ってくるような迫力でした。
そのキャバレー劇中は、どうでもいいようなところで号泣しちゃってさあ大変。
涙を隠すので大変だったのですが、どうしてか拭いても拭いても止まらない。ついには嗚咽までこぼれかけ、声を堪えるのに精一杯です。
目にこびりついて離れない上条恒彦のあの後姿ですよ・・・・。
ビデオで映画を見たときも切ない気持ちになったシュルツ、今回は切ないを通り越して激痛が走りました。
本当に、嗚咽が止まらなくなってしまったのです。
恥ずかしい話ですが、マジで号泣というのははじめての経験だった・・・・。
お目当ては真矢さんとユリちゃん、ニッキだったはずなのに、唐突に視界に入らなくなってしまったというのか、本当に・・・・とても言葉では言い表せません。
戦争が恐いとかそういうのじゃなくて、戦争が壊してしまった一人の老人の小さな幸福が痛かった。
ナイフでザックリとかいう潔いものではなくて、いつまでも傷口に何かが埋まって、何かの拍子に痛み出すような、それほどのものが胸に刺さって何をどうやっても抜けないほど。今も思い出すたびに涙が溢れそうになるほど、痛かった。
これはおじいちゃんっ子だった私の「老人が不幸になるのは見てられない」という心理が大いに働いたというのもあるのかもしれません(笑)
でも、戦争の恐ろしさっていうのは何を見ても明らかですが、戦争が本当に忌むべきものである最大の理由は、ひとの幸福を木っ端微塵にしてしまうことなんだなと改めて思いました。
エルンストの「だって当然だろ?」みたいなあの感じがさらに恐怖を煽るっていうか、もう・・・・!(嗚咽)
ひとがひとの幸福を木っ端微塵に出来てしまう恐ろしさ、そしてそれを当然のように、純粋に受止められてしまう恐ろしさ、”ナチス”というものに、本気で触れたような気がしました。
芝居でこれなら現実はどれほど恐ろしいものだったのかと思わず考えてしまいました。
「アンネの日記」などもそうですが、迫ってくるものの不気味さ以上に、日常の些細な幸せが余計に「ああ」と思わせるんですよね。
今回のあの、ビミョーなぬいぐるみのフルーツが・・・・。
それを嬉しそうに楽しそうにお皿に盛るシュルツが忘れられません。
本当に、上条さんのシュルツ、そしてあの可愛らしい、幸福の象徴のような、そして残酷な現実を表したようなフルーツ、とてもとても”痛かった”です。
キャストの皆さんについても書きたいのですが、今回ばかりはもうどうにも・・・・!
特に二幕は正直シュルツで埋まってしまったため、本気でそのへん曖昧です。
真矢さんはドラ猫のように可愛かった(笑)
愛すべきちょっとオバカな女の子で、毛皮で蹲ってるところなんてほんとにドラ猫ちゃんみたいでした。可愛かった〜。
ユリちゃんは、あ、あんな悪い子になって・・・・!というくらい驚愕の悪女っぷりでしたが、同じくらい驚愕したのはあの恐るべき脚線美ですよ・・・・!
なんだありゃ!本当に人間の足か!というくらいの衝撃でした。
あれほど足が長かったら私の人生も変わったと思われます。
ユリちゃんがあの足を惜しげもなくさらして喋ってる間、足に釘付けでした。アハハ!
ニッキは何かを・・・・何かを思い出させるんだけど、なんだったかな・・・。とても上手かったと思います。このひとは本当にお芝居上手だと思う。
三拍子揃ってました。
あとはもはや涙でどうにもなりません。
良い公演でした。正直、一生モノの経験が出来たと思います。
でもそれと同じくらい、もう二度と見たくないと思わせるほど私には衝撃的でした。
それはそのまま、”もう二度と同じような体験をさせる戦争を世界のどこでも起こしたくない”という気持ちに繋がらせるものでもあったと思います。
サリーやらなにやらの恋も吹っ飛んで、ひたすら戦争の恐ろしさを感じてしまった公演でした。うーん、それもどうなのかっていう話なんですけど(笑)
とにかくよいミュージカルでした。
特に小○首相あたり、見るにオススメです(笑)
余談ですがあの方の母上は我が母校の同じ学部の出身でして・・・・私のような若輩がいうのもあれですが、お母様は息子の教育を間違えたと思っています。
そういう感じかな。
今週は花組の初日ですが、その前にとにかく「花供養」の感想を・・・・!と歯を食いしばりつつ(笑)
それでは〜。
えーと、先週あたり・・・・かな?
遠い昔ライザ・ミネリの仰天の美しさに幼い私もメロメロだったという例のアレです。
なんていうか、なんていうか・・・・ほんっとに”痛い”話だったと思いました。
ビデオで観た時は”早く記者に乗るって言えYO!”と、サリーの動向にもっぱら躍起になっていた記憶があるのですが、今回はなんというのか、こう、私はキャバレー見にきたんだよ、ね・・・・?という感じでした。
劇中にこれほど、その場で席を立ってトイレに駆け込みたくなるほど(・・・・)(何故トイレと思ったのか・・・)激痛の走った公演はいまだかつてありません。
それほど痛かった。
戦争に絡めて・・・・というか、あの退廃的な雰囲気と戦争の陰鬱な感じが絶妙に交じり合って、(グローブ座のあの微妙に狭い感じもあるのでしょうが)、息苦しい気持ちにさせます。
疑似体験というにはおこごましいけれど、それほどまでにひとの恐ろしさを肌で感じた公演でもありました。
ゆりちゃん(星奈優里ちゃん)がコメントで「ひとの恐ろしさを感じていただければ・・・・」みたいなことを書いていたのを終演後に読みましたが、一幕最後がほんとにそんな感じで、純粋に何かを信じているひとの突き進んでいる姿の恐ろしさというのでしょうか。
ただひたむきに進んでいくっていうのは、高潔だったり真摯だったりみえるんだけど、このキャバレーは、ひたむきだからこその高潔さが確かにあるんですよね。
だからこそゾッとしたというのか・・・・瞬間的に手を引いてしまいそうな、顔を強張らせてしまうようなものがありました。
すごくリアルだった。
だからとても空恐ろしい気持ちになったんだと思います。
それと、やっぱり聴覚的に飛び込んでくる日本語だったのがおおいにあると思いました。
やっぱり英語とかで聞いている限りでは、恐ろしいと思うんだけどどこか現実感に欠けるんですよね、少なくとも私には。
「殺せ!」と言われるのと「KILL!」というのではやはり耳に飛び込んでくる絶対的な恐怖感は比べ物にならない。
普段自分が使っている言葉、要するに、”もしかしたら同じ言葉を聞くかも知れない恐ろしさ”というような、デジャ・ヴュを感じさせるんだなあと。
翻訳ものの価値はここに集約されていると思います。
本場は本場で確かにマジで感動します。
ウエストサイドもシカゴもこのキャバレーもそうだった。
でも身近に感じるのでは遙かに翻訳ものが一歩先に出るのです。
あの、字幕を見ている瞬間に、私たちは一度現実に立ち返ります。そこで「ああ、これはお芝居だ」と少し安心してしまう。
でも翻訳されていたならば耳に入るのは日本語で、字幕で目を逸らすことも出来ないから見つめていることしか出来ず、引き込まれれば引き込まれるほど眩暈のしそうな恐ろしい現実感にゾッと背筋を凍らせるしかない。そういう感じがします。
逃げようのない恐ろしさ、迫ってくるような迫力でした。
そのキャバレー劇中は、どうでもいいようなところで号泣しちゃってさあ大変。
涙を隠すので大変だったのですが、どうしてか拭いても拭いても止まらない。ついには嗚咽までこぼれかけ、声を堪えるのに精一杯です。
目にこびりついて離れない上条恒彦のあの後姿ですよ・・・・。
ビデオで映画を見たときも切ない気持ちになったシュルツ、今回は切ないを通り越して激痛が走りました。
本当に、嗚咽が止まらなくなってしまったのです。
恥ずかしい話ですが、マジで号泣というのははじめての経験だった・・・・。
お目当ては真矢さんとユリちゃん、ニッキだったはずなのに、唐突に視界に入らなくなってしまったというのか、本当に・・・・とても言葉では言い表せません。
戦争が恐いとかそういうのじゃなくて、戦争が壊してしまった一人の老人の小さな幸福が痛かった。
ナイフでザックリとかいう潔いものではなくて、いつまでも傷口に何かが埋まって、何かの拍子に痛み出すような、それほどのものが胸に刺さって何をどうやっても抜けないほど。今も思い出すたびに涙が溢れそうになるほど、痛かった。
これはおじいちゃんっ子だった私の「老人が不幸になるのは見てられない」という心理が大いに働いたというのもあるのかもしれません(笑)
でも、戦争の恐ろしさっていうのは何を見ても明らかですが、戦争が本当に忌むべきものである最大の理由は、ひとの幸福を木っ端微塵にしてしまうことなんだなと改めて思いました。
エルンストの「だって当然だろ?」みたいなあの感じがさらに恐怖を煽るっていうか、もう・・・・!(嗚咽)
ひとがひとの幸福を木っ端微塵に出来てしまう恐ろしさ、そしてそれを当然のように、純粋に受止められてしまう恐ろしさ、”ナチス”というものに、本気で触れたような気がしました。
芝居でこれなら現実はどれほど恐ろしいものだったのかと思わず考えてしまいました。
「アンネの日記」などもそうですが、迫ってくるものの不気味さ以上に、日常の些細な幸せが余計に「ああ」と思わせるんですよね。
今回のあの、ビミョーなぬいぐるみのフルーツが・・・・。
それを嬉しそうに楽しそうにお皿に盛るシュルツが忘れられません。
本当に、上条さんのシュルツ、そしてあの可愛らしい、幸福の象徴のような、そして残酷な現実を表したようなフルーツ、とてもとても”痛かった”です。
キャストの皆さんについても書きたいのですが、今回ばかりはもうどうにも・・・・!
特に二幕は正直シュルツで埋まってしまったため、本気でそのへん曖昧です。
真矢さんはドラ猫のように可愛かった(笑)
愛すべきちょっとオバカな女の子で、毛皮で蹲ってるところなんてほんとにドラ猫ちゃんみたいでした。可愛かった〜。
ユリちゃんは、あ、あんな悪い子になって・・・・!というくらい驚愕の悪女っぷりでしたが、同じくらい驚愕したのはあの恐るべき脚線美ですよ・・・・!
なんだありゃ!本当に人間の足か!というくらいの衝撃でした。
あれほど足が長かったら私の人生も変わったと思われます。
ユリちゃんがあの足を惜しげもなくさらして喋ってる間、足に釘付けでした。アハハ!
ニッキは何かを・・・・何かを思い出させるんだけど、なんだったかな・・・。とても上手かったと思います。このひとは本当にお芝居上手だと思う。
三拍子揃ってました。
あとはもはや涙でどうにもなりません。
良い公演でした。正直、一生モノの経験が出来たと思います。
でもそれと同じくらい、もう二度と見たくないと思わせるほど私には衝撃的でした。
それはそのまま、”もう二度と同じような体験をさせる戦争を世界のどこでも起こしたくない”という気持ちに繋がらせるものでもあったと思います。
サリーやらなにやらの恋も吹っ飛んで、ひたすら戦争の恐ろしさを感じてしまった公演でした。うーん、それもどうなのかっていう話なんですけど(笑)
とにかくよいミュージカルでした。
特に小○首相あたり、見るにオススメです(笑)
余談ですがあの方の母上は我が母校の同じ学部の出身でして・・・・私のような若輩がいうのもあれですが、お母様は息子の教育を間違えたと思っています。
そういう感じかな。
今週は花組の初日ですが、その前にとにかく「花供養」の感想を・・・・!と歯を食いしばりつつ(笑)
それでは〜。
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