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(続きです)
(相変わらずあの調子です)
そういう意味で、彼女に与えられる非難やなにやらといったものは、個人的に非常に切ないものがありました。
私は宝塚は生徒の成長の場であるという観点があるために、不器用だろうが未熟であろうが「まあこれからだからなあ」というものがありますが、最近ではなかなかそういうことが許されなくなってきているなと感じます。
それは本来の舞台という場を考えれば当然のことですが、あえて一つ。
舞台に出れば一人前の舞台人、失敗は許されない。
それも一つの意見でしょう。確かに頷ける部分もあります。
ただ、そういう厳しい視線と温かい視線とで育っていく生徒を見るというスタンスも、選択肢の一つには入らないでしょうか。
このひとはここがダメだから嫌いだ、要らないと切って捨ててしまうことは各個人で思うならまだしも、それを大っぴらにして非難の嵐を巻き起こすというのは、どうにも子どもじみているように思います。
思うことは自由、けれど書いて公に発表するとしたならば、それには責任が伴います。そうした意味で、ネットやその他全般のモラルの低下が激しくなっているように思えて仕方がありません。
私自身、このひとはどうしても苦手だーと思ったり、色々と思いを抱くことはあります。
でもそれを人の目(その誰かを好きなひとの目)に触れる場所において、不用意に傷つけるのはどうなのかと思わずにはいられない。
ネットで書いたものは案外容易に消すことが出来ます。
でもそれを見たひとの心に残った傷は、その何倍の時間をかけても拭えないものだということを、言論の自由云々と主張する前によく心に留めおくこともまた必要だと思います。
それ一つで、かなり変わると思うのですが。
出会いと同じで、等しく別れが訪れるこの宝塚という場所。
それはどの営みでもあるものですが、宝塚の生徒という位置づけがある意味異色であることや、それに付随するファンの気質が従来のファンよりもより深いものであることが、世間の目に相互の関係を異質なものに見せると同時に、一つの伝統と見られているように感じます。
だからこそ好きなんだという思いを新たにしながらも、去りゆくひとに思いを寄せるという宝塚の中で繰り返されてきた循環を見て、やはりこの宝塚という場所は得がたいものだと感じます。
流れ流れていくからこそ、常に新鮮な魅力をもつ宝塚。
つまりは、宝塚の魅力は百花繚乱、常に成長し、流れ、時代に沿いながら「永遠に変わらない愛」を説くという矛盾をはらみながらも、それを無理なく見せてきた点にあるのではないでしょうか。
現実にはありえないかもしれない。でも、宝塚へ行けばいつでもそこにあるという安心感。
まだまだこの生徒が見たい。けれど、その後にはたくさんの花が花開くのを今か今かと待っている。
出会いと別れを繰り返す循環の中で、変わらないものがあるということこそが、やはり宝塚の大きな骨だと思います。
その変わらない部分を、もっと大切にしてもよいのではないかと思う。
それは組カラーであったり、生粋の組生徒であったり、伝統であったり様々です。
変わらなければならない部分を見つめながらも、常に革新なのではなく原点に立ち返る余裕がもっとあっても良いのではないでしょうか。
確かに革新も必要でしょう。でも私は、革新だけが新しい世代への道だとは思いません。
それは古い時代に対する感傷とは別に、伝統や歴史の重みを大切にしてこそ見えるものもあると信じているからです。
今の卒論のテーマとして「大量生産・大量消費」という言葉が否応無に脳裏に浮かびますが、やみくもに新しいものを求めるのではなく、今ある現状の中から最善の道を考えるということも、確かに一つの道だと思わずにはいられないので。
完璧なひとの織り成す舞台を楽しむ道もあるでしょう。
それは私も大好きだし、「このひとなら安心」と思いながら見る舞台には、何よりも安心と信頼、舞台そのものを楽しむことの出来る余裕があります。
その魅力とは別に、完全ではないからこそ、これから先が見えるからこそ、そのひとが歩く道を出来得る限り近くで見つめてみたいという、そういう楽しみもあるのではないかと思うのです。
そして私は、宝塚という場所がそれを許す土壌をもつ場所であってほしい。
周りの生徒と切磋琢磨し、磨かれていく時間を、何よりも大切なものに思います。
花にも例えられるタカラジェンヌとしての一生はどんなに多くでも数十年、短ければほんの数年という、限られた時間です。
でもその中で、競い合って咲く花々には本当に、一つひとつの彩りがあっていいはず、それが許される場所であるはず、そうでなければならないのではと思います。
完成されていなくてもいい。不完全でも、未熟でもいい。
夢と希望に溢れた笑顔で、ひたむきに進んでいく道を見せてくれること。その笑顔を観客である私たちに見せて、それぞれの道までも明るく照らしてくれること。
それが何よりも得がたい、そして宝塚ならではの魅力であると信じます。
一般向けにシフトしていくならばそれもまたよし。
普通のひとを連れて行くには恥ずかしいというひとの意見も、ある意味では一理あります。
だけど、その時に少し考えてみてほしい。
宝塚は、夢に世界に浸れる場所。舞台を楽しむと同時に、変化と成長を楽しむ場でもあるということです。
そして、どの分野であっても伝統と歴史は存在し、その伝統と歴史を愛している人間がいること、最初は誰もが初心者であり、すんなりと受け入れるのは、結局はそのひとの容量次第だということです。
やみくもに一般向けにシフトすることに対する私の危惧は、そこにあります。
それに合わないというのならば、それで仕方がないではありませんか。
宝塚が好きではないというひともいれば、何か他のことが好きではないというひともいます。何も不思議なことはないはずです。
世間一般とは違うこと、それこそが宝塚をここまで歩ませてきた側面であることも、疑いない事実なのですから。
かといって、一部のファンのためだけに運営して、ますます孤立を深めていけばいいというのではありません。
ある場所では門戸を開き、ある場所では伝統を守る。
そういった繰り返しをこそ大切にしてほしいし、その中で道を模索する、そんな今後を期待したいと心から思います。
私は宝塚を、宝石箱のように思っています。
開けば色とりどりの宝石のような輝きが見えて、美しい笑顔を見せるひとびとがいて、笑顔や夢をくれるという、現実離れした世界。
誠実や優しさといった真摯でひたむきなものをもつ人々が、美しい愛を語る場所。
子どもの頃無心に追い求めた、ただひたすらに美しいものの結晶体が、宝塚の中にあるように感じています。
ミラーボールが回って、舞台という場所がシカゴになったりアイルランドになったり、はたまたアフリカやエジプトに一瞬で変わるあの場所、あの空間に感じる幸福感は例えようもありません。
愛らしく優しいあの空間が奏でる音色は、まるで古く懐かしいオルゴールのよう。
学生という時間に終わりを告げて社会人になるこの年、現実を見なければならない大人に私自身成長しなければならないときが来ているからこそ、夢のある場所を大切にしたい、次の世代のひとが夢を見る場所であってほしいと、思わずにはいられないのです。
(相変わらずあの調子です)
そういう意味で、彼女に与えられる非難やなにやらといったものは、個人的に非常に切ないものがありました。
私は宝塚は生徒の成長の場であるという観点があるために、不器用だろうが未熟であろうが「まあこれからだからなあ」というものがありますが、最近ではなかなかそういうことが許されなくなってきているなと感じます。
それは本来の舞台という場を考えれば当然のことですが、あえて一つ。
舞台に出れば一人前の舞台人、失敗は許されない。
それも一つの意見でしょう。確かに頷ける部分もあります。
ただ、そういう厳しい視線と温かい視線とで育っていく生徒を見るというスタンスも、選択肢の一つには入らないでしょうか。
このひとはここがダメだから嫌いだ、要らないと切って捨ててしまうことは各個人で思うならまだしも、それを大っぴらにして非難の嵐を巻き起こすというのは、どうにも子どもじみているように思います。
思うことは自由、けれど書いて公に発表するとしたならば、それには責任が伴います。そうした意味で、ネットやその他全般のモラルの低下が激しくなっているように思えて仕方がありません。
私自身、このひとはどうしても苦手だーと思ったり、色々と思いを抱くことはあります。
でもそれを人の目(その誰かを好きなひとの目)に触れる場所において、不用意に傷つけるのはどうなのかと思わずにはいられない。
ネットで書いたものは案外容易に消すことが出来ます。
でもそれを見たひとの心に残った傷は、その何倍の時間をかけても拭えないものだということを、言論の自由云々と主張する前によく心に留めおくこともまた必要だと思います。
それ一つで、かなり変わると思うのですが。
出会いと同じで、等しく別れが訪れるこの宝塚という場所。
それはどの営みでもあるものですが、宝塚の生徒という位置づけがある意味異色であることや、それに付随するファンの気質が従来のファンよりもより深いものであることが、世間の目に相互の関係を異質なものに見せると同時に、一つの伝統と見られているように感じます。
だからこそ好きなんだという思いを新たにしながらも、去りゆくひとに思いを寄せるという宝塚の中で繰り返されてきた循環を見て、やはりこの宝塚という場所は得がたいものだと感じます。
流れ流れていくからこそ、常に新鮮な魅力をもつ宝塚。
つまりは、宝塚の魅力は百花繚乱、常に成長し、流れ、時代に沿いながら「永遠に変わらない愛」を説くという矛盾をはらみながらも、それを無理なく見せてきた点にあるのではないでしょうか。
現実にはありえないかもしれない。でも、宝塚へ行けばいつでもそこにあるという安心感。
まだまだこの生徒が見たい。けれど、その後にはたくさんの花が花開くのを今か今かと待っている。
出会いと別れを繰り返す循環の中で、変わらないものがあるということこそが、やはり宝塚の大きな骨だと思います。
その変わらない部分を、もっと大切にしてもよいのではないかと思う。
それは組カラーであったり、生粋の組生徒であったり、伝統であったり様々です。
変わらなければならない部分を見つめながらも、常に革新なのではなく原点に立ち返る余裕がもっとあっても良いのではないでしょうか。
確かに革新も必要でしょう。でも私は、革新だけが新しい世代への道だとは思いません。
それは古い時代に対する感傷とは別に、伝統や歴史の重みを大切にしてこそ見えるものもあると信じているからです。
今の卒論のテーマとして「大量生産・大量消費」という言葉が否応無に脳裏に浮かびますが、やみくもに新しいものを求めるのではなく、今ある現状の中から最善の道を考えるということも、確かに一つの道だと思わずにはいられないので。
完璧なひとの織り成す舞台を楽しむ道もあるでしょう。
それは私も大好きだし、「このひとなら安心」と思いながら見る舞台には、何よりも安心と信頼、舞台そのものを楽しむことの出来る余裕があります。
その魅力とは別に、完全ではないからこそ、これから先が見えるからこそ、そのひとが歩く道を出来得る限り近くで見つめてみたいという、そういう楽しみもあるのではないかと思うのです。
そして私は、宝塚という場所がそれを許す土壌をもつ場所であってほしい。
周りの生徒と切磋琢磨し、磨かれていく時間を、何よりも大切なものに思います。
花にも例えられるタカラジェンヌとしての一生はどんなに多くでも数十年、短ければほんの数年という、限られた時間です。
でもその中で、競い合って咲く花々には本当に、一つひとつの彩りがあっていいはず、それが許される場所であるはず、そうでなければならないのではと思います。
完成されていなくてもいい。不完全でも、未熟でもいい。
夢と希望に溢れた笑顔で、ひたむきに進んでいく道を見せてくれること。その笑顔を観客である私たちに見せて、それぞれの道までも明るく照らしてくれること。
それが何よりも得がたい、そして宝塚ならではの魅力であると信じます。
一般向けにシフトしていくならばそれもまたよし。
普通のひとを連れて行くには恥ずかしいというひとの意見も、ある意味では一理あります。
だけど、その時に少し考えてみてほしい。
宝塚は、夢に世界に浸れる場所。舞台を楽しむと同時に、変化と成長を楽しむ場でもあるということです。
そして、どの分野であっても伝統と歴史は存在し、その伝統と歴史を愛している人間がいること、最初は誰もが初心者であり、すんなりと受け入れるのは、結局はそのひとの容量次第だということです。
やみくもに一般向けにシフトすることに対する私の危惧は、そこにあります。
それに合わないというのならば、それで仕方がないではありませんか。
宝塚が好きではないというひともいれば、何か他のことが好きではないというひともいます。何も不思議なことはないはずです。
世間一般とは違うこと、それこそが宝塚をここまで歩ませてきた側面であることも、疑いない事実なのですから。
かといって、一部のファンのためだけに運営して、ますます孤立を深めていけばいいというのではありません。
ある場所では門戸を開き、ある場所では伝統を守る。
そういった繰り返しをこそ大切にしてほしいし、その中で道を模索する、そんな今後を期待したいと心から思います。
私は宝塚を、宝石箱のように思っています。
開けば色とりどりの宝石のような輝きが見えて、美しい笑顔を見せるひとびとがいて、笑顔や夢をくれるという、現実離れした世界。
誠実や優しさといった真摯でひたむきなものをもつ人々が、美しい愛を語る場所。
子どもの頃無心に追い求めた、ただひたすらに美しいものの結晶体が、宝塚の中にあるように感じています。
ミラーボールが回って、舞台という場所がシカゴになったりアイルランドになったり、はたまたアフリカやエジプトに一瞬で変わるあの場所、あの空間に感じる幸福感は例えようもありません。
愛らしく優しいあの空間が奏でる音色は、まるで古く懐かしいオルゴールのよう。
学生という時間に終わりを告げて社会人になるこの年、現実を見なければならない大人に私自身成長しなければならないときが来ているからこそ、夢のある場所を大切にしたい、次の世代のひとが夢を見る場所であってほしいと、思わずにはいられないのです。
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