宝塚に思うこと。1

2006年1月9日
(正月からありえないほど真面目に薄ら寒い議論を展開していますが、あくまでも私個人の意見です。ご了承くださいませ)

昨日海外から帰国致しまして、録画していたエリザベートの東京千秋楽を見ました。
感慨深いこの公演、千秋楽の様々な思い出までもプレイバックされる映像でした。
というかもう最後のデュエットダンスからサヨナラショーまで涙が止まりませんでした、よ・・・!
登場シーンからもうジンワリきてしまっていたのですが、さえちゃんらしいあのニッコー!という笑顔が見れた瞬間、ブワーと噴水のように涙が吹き上がってしまってもう止まらなかった。
そのとき、私は本当にこのひとのことが好きだったんだなあと心から思いました。

あの時は退団という二文字がくっきりと脳裏に刻まれていても、それでもどこかで麻痺している部分があったように思います。
今、新しい月組が順風満帆なスタートを切って(と私には見えました)、新しい瀬奈じゅんカラーが月組を素敵な色に染め始めている今だからこそ込み上げるものというのが確かにあって、別れや、その別れに付随する寂しさというのは、時間が経ってふと思い出したときにこそ純粋な、澄み切った切なさや寂しさがあるのではないかなあと感じました。

今の宝塚というのは、どうも椅子とりゲームっぽくなってきたというか、もともとそういうのは確かにあったけれどそれが表面に出てきてしまったり、ネットという巨大な場を通じて批判や中傷に繋がってしまったりと、ギスギスしてしまっている部分がたくさんあるなと思います。
かくいう私も、純粋に楽しみたいと思う反面、どうしてもそうでない部分が出てしまって、純粋に楽しみたい部分と純粋に楽しめない部分の板ばさみになって、我ながらアホの子のようにジレンマに苦しむときもありました。
見ないようにしても見えてしまう現実、思惑といったものが、夢の世界であるべき宝塚に黒い染みを広げている矛盾や、生徒の頑張りに比例しないスタッフ側の技術。
後半に関しては、あるいは生徒の体当たりの演技やらなにやらがなくなってきてしまっているということが問題なのかもしれませんが、それを応援するファンの気質も、最近では刺々しくなりつつあるような気がしてなりません。
もともと、宝塚を好きになったのは、普段の舞台では許されない失敗をも笑って見守るおおらかさや、学芸会然とした未熟さがあったからでした。
この場合、学芸会というのは意地悪く評価した言葉ではありません。
私にとって「学芸会のようだ」という言葉は、何よりも大切なもので、これからも大事に大事に育んでいってほしいものだからです。
お金を取る舞台に出る以上、失敗は許されず高品質なものでなければならない。それが礼儀であり、舞台に携わるひとにとっても矜持のようなものがあるでしょう。(だからこそ、観客にもマナーが要求されると思います)
ただ、宝塚はその舞台に上がる生徒(我が子のようでもある)の可能性を楽しむものであり、舞台姿の出来に関わらず「このひとを応援したい!」と思わせてくれる、それが何よりも魅力的でした。
まるで身内のように、大好きになってしまったひとの演技や役どころに一喜一憂して、より高い場所に立てば涙を流して喜ぶ。
時には親のように、時には子どものように、現実をほんの少しだけ忘れて、ただひたすらに夢のような世界へ飛び込んでいくことが出来る。無邪気に喜んでいられる。
欠点をまるごと飲み込んで、それも含めてこのひとを応援したい、このひとだからこそ好きなのだと思える一瞬が何よりも嬉しく大切で。
それこそ、ずっと前から私たちが経験してきたであろう学芸会の様子そのものではないでしょうか。
一つの舞台を、まるで我がことのように大切に思い、応援する。そういう学芸会のような拙くも温かい雰囲気って、素晴らしいものだと思うのです。
宝塚はオールマイティに全てがこなせるひとの集団ではありません。
そんな観点からいったら、宝塚という存在自体がありえないものになってしまう。
あるいは美貌一本、あるいは歌一本、演技一本、ダンス一本。そんな一つの道を追求するひとが居場所を許されたところでもあり、その一つひとつの彩りを愛しく思うということ。
足りないところを補う場面を、嬉しく見守ること。
活躍を心から喜ぶこと、子どもの恋のように、純粋で熱心な心を預けること。
それは子どもっぽいノスタルジーなのかもしれませんが、その甘さ、その優しさが許されるからこそ、宝塚というものは90年間続いてきたのではないかとさえ、私は思います。

私にとって彩輝直さんことさえちゃんは、まさにそんなひとだったように思います。
美しいけれど歌はヨロヨロしていて、彼女が歌う時は音程がなかなか取れないメロディと同じでファンの心は不安でいっぱい、ダンスは一目で分かるほどターンが遅れていたりするけれど、決めるところは何故かしっかり決めてしまう。
癖のある声、ダンス、おそらく万人受けするには難しいかもしれない。でも時折見せる輝くような笑顔が愛しくて、その真っ直ぐで純粋な笑顔と、この世のものならぬ美しい佇まいや包容力溢れるお芝居に、一度ならず涙したものでした。
不安と期待、心配と安心が交互に押し寄せる彼女の舞台は、さながらジェットコースターのようでした。
どうしようと不安に思いつつ、彼女の笑顔に思わず笑顔になり、惹かれていくのを止められなかったあの頃は、大事な子どもを見守るのと同じくらいの感覚で、まるで恋をしていたようだとも思います。
他の舞台で観るような、研ぎ澄まされた演技ではないかもしれない。ダンスも芝居も歌もまだまだ改善の余地がありました。
でも私は、そんな彼女だからこそ、欠点を自覚し、毎度努力を惜しまない彼女だからこそ好きだったのです。
成長を見せてくれるひとだったから、それを出し惜しみしないひとだったから、いつも全力だったから。
ひたむきな姿を見て、私も頑張ろう、頑張れるに違いないと思えるあの一瞬が何よりも大切でした。
そういう意味で、私はどれほど不完全であろうが、欠点の数が長所のそれを上回っていようが、次に向かう勇気やその他諸々の感情を彼女からもらっていたのです。
完全ではないからこそ惹かれるという、昔からあるこのパターンに私はすっかりはまり込んでしまって、抜け出せなくなってしまいました。
そうやって年を重ねていって、最後に見せてくれたエリザベートのトートという役どころは、これまでの努力が素晴らしい結末を生んだ、一つの最高の形だったと思います。
そこまで到達すること、それに至るまでの過程を見ることが出来たこと。素晴らしい瞬間に居合わせたのだと、あの時全身で実感しました。
課題だった歌が大幅な改善を見たのを目の当たりにした時、もう涙が止まらなかった。
我ながらバカみたいだと思いつつも、ぼやける視界はどうしようもなく、膝においてあったティッシュで涙を拭って舞台を見てまた拭ってという繰り返し。
嬉しかったのと、それまでの不安が一気に解消されたのと、これが最後だという切なさ、どれがその涙の原因だったのかわかりません。もしかしたら、その全てだったのかもしれない。
でもそういう時間を持てたこと、それを目の当たりに出来たことが、ファンにとって何よりのこと、もっといえば最高の結末に相応しいエンディングだったように思いました。

(下に続く)

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